東日本大震災後の雄勝石に関する情報資源の基礎的研究Fundamental study on information resources on the Ogatsu stone after the Great East Japan Earthquake
顧 錚
1.背景・目的
石巻市雄勝町は、東日本大震災により、地区の中核であった雄勝石産業をはじめ、水産・観光産業も壊滅的な被害を受け、現在においても都市基盤の復旧・復興像が見えないままにある。居住人口も震災前の 4200 人が震災後約 1000 人に激減し、住民の離散・流出に歯止めがかからず、コミュニティの崩壊も著しい。この問題を解決するには産業と雇用の立て直しが必須と考えた本学の「雄勝いしのわプロジェクト」チーム 1)は、復興大学の協力を得て、雄勝硯生産販売協同組合(以下、硯組合とする)並びに行政との協働による実行委員会を立ち上げ、再生に 向けた諸活動を2012 年 4 月から現在まで行ってきている。このプロジェクトの主目的は、地域の雇用を支えてきた「雄勝硯及び雄勝石(天然スレート)産業を核とした復興」、雄勝地域の持続可能な社会づくりであり、地域内外の他産業(水産・食・観光)との連携を図りながら、「場づくり(拠点構築)」「モノづくり(商品開発・流通開発)」「人づくり(人材育成・交流)」の再生に向けて実践的に取り組んできている。
本研究では、本学のプロジェクトの実践に参画しつつ、主に雄勝石産業を対象とした再生構築のための基礎的資料作成に取り組んできた。その収集は現在も困難を極めているが、雄勝石産業の産組合にとっても、これまで蓄積してきた内容を次
世代に継承するための活かせる資料は不可欠と捉えている。
従って、本研究では、「消失しつつある基礎資料を可能な限り収集すること」と「収集した資料の関連分野を統合し、今後に活用できる資料として整理すること」を主目的とする。
2.研究方法
1)雄勝石とその産業とくらしに関する文献調査
2)震災前から現在まで、雄勝石とその産業やくらし等について雄勝石産業に関わる従事者や行政従事者対等へのヒヤリング調査
3)東日本大震災後に収集した石製品の調査とその整理と分析
4)考察3.論文構成
本研究は全 5 章からなり、第 1 章は「序論」で研究の背景・目的・論文の構成と方法について述べている。第 2 章は「文献調査による東日本大震災前雄勝石と産業に関する事象」、雄勝石の特徴、雄勝石とくらしとの関わり、雄勝石の産業化と東日本大震災前に雄勝石産業関する既往研究の文献調査を述べている。第 3 章は「東日本大震災前から現在まで雄勝石とその産業に関するヒヤリング調査」とし雄勝石産業に関与してきた対象者にヒヤリングした結果を述べている。第 4 章は「東日本大震災後に収集した石製品の調査」であり、震災後収集された雄勝石製品の調査とその資料整理内容と分析を述べている。第 5 章は「考察」とし、2 章、3 章、4 章の内容をもとに浮上してきた課題と本資料の活かし方について述べている。
4.文献とヒヤリング調査から得られた内容
雄勝石とその産業に関する多くの文献は、かつての雄勝硯伝統産業会館に保管していたが、東日本大震災の津波でほとんど流失した。文献調査では、東日本大震災前の雄勝石に関する昭和 40 年の「雄勝町史」、木村鐵郎が著した「The 硯」と先行論文 2 編を中心として行った。文献調査の内容に関しては、「石とくらし」「採掘」「硯」「石盤」「人」「流通」「拠点」の 7 つの項目に整理し、表 1 に示すような内容でまとめた。ヒヤリング調査は、雄勝石産業に関わる従事者や行政従事者対等の 10 名を対象として行った。調査内容は、「雄勝石」「採掘」「硯」「石盤」「生産するための道具と設備」「人」「流通」「拠点」の 8つの項目に分類し、整理した内容を表 2 にまとめた。文献とヒヤリングで整理した内容の特徴的な概要は、以下の①~⑨にまとめている。また、震災後の収集物に関する整理もヒヤリングを通して行っているが、ここでは触れてない。その内容については、第 4 章の「東日本大震災後に収集した石製品の調査」として詳述した。
1)石とくらし
・縄文式時代に雄勝町内の貝塚・立浜貝塚から縦石匙、石鍬、独鈷石が発見された 2)。
・弥生式時代に石庖丁は紡錘状で二つの孔を有する扁平な磨製石器、稲の穂を摘みとるための道具と言われる 2)。
・宮城県内で石古碑が、鎌倉期に 395 個、南北朝期に 308 個、室町期に 228 個建てられた 2)。
2)雄勝石
雄勝石とは、雄勝町で産出された純黒色の粘板岩である。北上山系登米層古生代二畳紀(2、3億年前)に属し、黒くて硬質で、圧縮、曲げに強く、給水率が低いため、変質しない性質を持っている 3)。
日本では約 600 年前から硯の原料として使われ、近代においては屋根や壁などのスレート材として親しまれてきた。また、雄勝石は「玄昌石」とも呼ばれている。・雄勝の石は石炭と微量の鉄分が入っているから黒い、ノコギリを使って、手掘りで取れる柔らかさを持ち、薄く割れる。
・登米の石は固い、ジャカ(木で言えば「節」にあたる)無数に入っている為、石盤と硯にはならない。
・波板の石白色の筋が入って、吸水率が低く、耐熱性もよいため、墓石、テトラポット、炭焼き窯をつくり「炭として使用した。・ポゾラン(石粉)は、重油がない時代に「炭」として使用した。波板のポゾランは白色系であり壁材としてよく使用され、黒色の明神のポゾランは壁材としてはあまりにも黒色であったことから使用されなかった。
・昭和時代に明神と波板でポゾランを生産していた。
3)採掘
・約 600 年前から「硯浜」で採掘をしていた。
・江戸期の仙台藩時代から「お留山」を「お止め山」にし、一般採掘を禁止した。明治時代から「明神山」で採掘、「お留山」同じ鉱脈という。
・大正時代から昭和時代にかけて、雄勝の石の採掘場は十数ヶ所があった。
・登米の石の採掘は鉱道掘りであった。・雄勝の石の採掘は、参天掘りあり道路が無かったため索道(ケーブル)をつくり、ノコギリで切りだした石を狭い山道を背負って大変急な道を降りる際には鉄索を使った。
・大正時代から昭和時代にかけ、採掘場では採掘や運搬に重機が使われ、石を大きく切り出し、工場で加工するようになった。
・戦後、雄勝の石工場ではダイヤモンドソー(ダイヤモンドカッター)を使い始めた。
・震災後に雄勝石の採掘場所は、「明神山」、「名振山」、「お留山」、「波板」の 4 ヶ所で、現在唯一採掘をしているのは「明神山」である。
4)雄勝硯
・雄勝硯の歴史約 600 年の室町時代からと言われている。
・安土桃山時代には、葛西左京太夫晴信公の家来である高宮半兵衛は岩手県横沢村(現岩手県東山町)から雄勝に移り、奥田安清と名を改め、硯切りを行っていた 2)。
・約 400 年前に、仙台藩主の政宗公に雄勝の硯を献上、昭和 49 年に政宗公のお墓である瑞鳳殿を再建した時に、埋葬品から発掘された 4)。
・雄勝は昭和 25 年(1950 年)代前半から昭和 63年(1988 年)まで、雄勝石を使用した「並硯(ナミスズリ)」と呼ばれる「学童用硯」生産していた。
・昭和 40 年(1965 年)ころ雄勝の方は中国湖南省に、人工ではない学童硯の掘り方を中国で指導し、その後、日本に半製品を輸出していた。
・昭和 35 年(1960 年)から、ポゾラン(別称石粉)をセメントと水を混ぜてから、金型に流し込む「人造学童硯」の製造もしていた。
・「雄勝硯」は昭和 60 年に日本の伝統工芸品に指定され、震災後に「地域団体商標」に登録された。
5)石盤
・山本儀兵衛は、雄勝の石産業を産む親と呼ばれるほど、雄勝石を広げた人物である。明治 6 年(1873 年)「学制」などの教育改革によって、習字道具としての硯(「四平」、「四五平」の規格硯)と石盤の需要は拡大された。山本儀兵衛は明治 6 年 6 月に帰省した永沼秀実と同行し、雄勝の探硯鉱廃山より 1 片の玄昌石を拾い喜んで持ち去って、石盤として使えることが分かり、明治 8 年(1875 年)明神で開進社(のち開運社)を設立し、石盤の製造を企業化した 5)。その後、開運社は宮城県監獄署に、雄勝の石盤採掘工事に出役要請し、宮城県監獄署は天雄寺を仮の宿舎として、西南戦争の国事犯を送り、石盤製作をしていた 6)。それまでの日本の教材用の石盤はドイツから輸入されていた。
・スレートは、明治時代にはヨーロッパでは既に建築材料として使用されており、日本の国内では主に屋根材としてスレートを使用した。雄勝の石盤葺き技術は、明治 23 年(1890 年)に大阪の篠崎源次郎がドイツから導入した。石盤の最初のサイズは一尺六寸であり、加工することによって、石盤の単価が高くなった。石盤は場所によって大きさは異なり、葺き方も違うため、外国から輸入してから日本で再加工し、使用した。雄勝に最初のスレートを使った建物が明治23 年(1890 年)、篠崎氏の指導による建てられた「名振浜の永沼家」と言われている。また、重要文化財の(屋根の)葺き替えは明治時代になると雄勝の石、明治の後半から大正のはじめにまでは登米の石を使用していた。
・昭和初期から雄勝の石盤は、国内だけでなく海外にも輸出をしていた 2)。
・昭和時代後半から、時代の流れに従って、石盤の製品化をもっと広げるために、雄勝石を使用した食器、コースター、時計など多様なクラフト工芸品が生み出された。
・昭和 55 年(1981 年)雄勝硯生産販売協同組合は、東北工業大学工業意匠学科第三生産技術研究室・宮城県産業技術総合センターの産学官連携事を行い、主に商品開発・流通開発・異業種交流等事業展開を実践的に行ってきた。
6)生産するための道具と設備
・明治時代まで、採掘場までの道路が無かったため索道(ケーブル)をつくり、「ノコギリ」で切りだした石を狭い山道を背負って大変急な道を降りる際には鉄索を使った。
・大正時代から昭和時代にかけて、採掘場では採掘や運搬に重機が使われ、石を大きく切り出して、工場で加工するようになった。
・木村金治郎によって、石製品の生産技術の確立と研磨機械「円盤」の開発を行った。工場では、戦前から円盤が発動機を使って回転し、上に砂を水と一緒に流していて、石を置いて磨くという。
・戦後、雄勝の石工場では大きいし石を小さくカットする「ダイヤモンドソー(ダイヤモンドカッター)」を使い始めた。昭和時代の後半ごろから、研磨用の「ベルトサンダー」や石を型取り用の「コアドリル」等の機械を使用している。
・「荒掘り機械」は雄勝独自開発された機械で、硯の生産工程の「縁立て」と「荒掘り」を合わせて行う機械である。雄勝にある「保科鉄工所」で生産されている。
7)人
・安土桃山時代に高宮半兵衛が奥田安清に改名、雄勝で硯切りを教えていた 2)。
・江戸時代に山城孫三良は奥田安清の弟子、奥田主計に改名、伊達政宗に硯を献上した 2)。
・明治時代に山本儀兵衛は明神地区で「開進社」(東京支社「開運社」)を設立し、企業化した。また、明治政府に人を要請し、宮城刑務所が西南戦争の国事犯を 70 人が雄勝に送り、最終的には 305 人が送られ、石盤の生産をしていた 6)。
・明治時代に篠崎源次郎は、ドイツから石盤葺き技術を日本に導入し、雄勝の「永沼家」の家は篠崎氏の指導で石盤葺きを行ったという。
・雄勝地区の硯職人の奥さんは研磨を手伝い、家族総出と家内工業が多かった。買い取る人を「硯屋」と呼んでいた。
・第二次世界大戦直後、各経営体が「採掘業組合」、「円盤組合」、「職工組合」と「製硯組合」の 4つの組織に結成した。1970 年に、前 3 者は合併し、「雄勝硯生産合同組合」となり、石製品の生産をしていた。「製硯組合」は地域商品の販売を関わっていた。昭和 59 年(1984 年)には法人組織「雄勝硯生産販売協同組合」となり、木村鐵郎が初代理事長を務めていた。
震災後、硯組合は石製品を生産するほか、石の採掘も行い始まっている。
8)流通
・明治時代に、生産された教材用の石盤は、国内の児童に提供していた。道路がなかった時代は、石盤などを船で搬出していた。大正時代から昭和時代初期までは、日本で紙を普及してから、三井など大手商社を通じて、「ボンベイ航路(綿航路)」を利用し、インドなどの途上国に雄勝の石盤を輸出していた。
・建材用の石盤は、明治時代に中央に送る石盤は一般サイズの大きさで、角を欠けたりして、使えなくなるから、もっと小さくして使っていたものは、産地の周辺で使った、更に鱗にしたり、角にしたりして、民家に使用した。
・昭和時代に雄勝の石業者は雄勝石を山梨で加工し、「雨畑硯」として販売していた。
・学童硯が大量生産のころ、韓国から約 5 年間忠南石「保寧石」硯を輸入し、昭和 53 年から中国から天然石硯を輸入開始した。
・昭和時代末期に雄勝生産販売組合は商品開発のために、クラフト部を作り上げ、本格的に石製品を多様化にしてきている。
9)雄勝石産業に関する拠点施設
・明治 11 年(1878 年)9 月、宮城県監獄署は開運社の出願要請に対し、西南戦争(1877 年)の国事犯約 70 名を雄勝の石盤採掘工事に出役要請を願い出て許可になり、10 月監獄署典獄水野重教、国事犯椎原国幹(西郷隆盛の伯父)と共に分監の実地点検のために雄勝浜に出張し、国事犯たちは雄勝の「天雄寺」を仮宿舎として石盤製作に携わった 6)。明治初期に雄勝に宮城刑務所の分監として、「宮城集治監」が設置された。宮城集治監は上雄勝に 6 棟があり、320 人の国事犯もいた宮城集治監は明治 29 年に津波で被害を受け、閉鎖した 6)。
・国内唯一の硯の展示施設として、平成 ⒉年(1990 年)に「雄勝硯伝統産業会館」が雄勝湾のそばに開館した。重さ 500kg、長さ 156.5cm、幅 76cm の大硯をはじめ、国内の銘硯、中国硯、東北地方最古の和硯・木製の硯など、雄勝硯約250 種、全国 20 産地の硯を展示していた。また、雄勝硯工人の系図や現工人の作品、雄勝硯の型などの資料も公開していた。
・平成 13 年(2001 年)に石産業も含めた、町全体の発信する拠点として、船の形をイメージした建物を増築した。
・平成 14 年(2002 年)から硯組合は指定管理者となり、館の催事は一般展示、特別展示、ワークショップなど行っていた。特別展示コーナーで、仙台藩主伊達政宗公が愛用した雄勝硯のレプリカや、歴代藩主直筆の書を展示する他、新館でさまざまな企画展を開催した。
・東日本大震災で雄勝硯伝統産業会館は、津波により浸水し、大きいな被害を受けた。平成25 年(2013 年)「雄勝硯伝統産業会館」の解体工事後、被災し撤去された雄勝支所庁企跡地に、雄勝硯を生産する工房と倉庫が建てられ、平成 26 年(2014 年)6 月 1 日より使用してきた。現在は硯組合の本設となっている。尚、文献及びヒヤリングの内容を一覧として整理したのが(表 1、表 2)に示したものである。
5.震災後に収集された石製品について
・硯石は約700年前から硯浜で採掘 ・雄勝の石は石炭と微量の鉄分が入っているから黒い、シリカが入っているため、すべてが硯材ではない
・登米の石は固い、ジャカ(木で言えば「節」にあたる)無数に入っている為、石盤と硯にはならない
・薄く割れる・ノコギリを使って、手掘りで取れる柔らかさ
・雄勝の石は日本国内ほかの石より耐候性がいい、地元では玄昌石と呼ぶ
・硯の石が取れるところは山の高いところから低いところまである、薄く割れる石盤材を「割れ物」と呼び、割れ物でない山は「上層の山」と呼ぶ
・「明神」の採掘場は明治期から採掘していた
・ノコギリを使って、手掘りで石を取る ・雄勝の石の採掘は参天掘りで、道路が無かったため索道(ケーブル)をつくった、ノコギリで切りだした石を狭い山道を背負ってきた、大変急な道を降りる際には鉄索を使った、ノコギリで引いた跡は「引き目」と呼ぶ
・明治23年 篠崎源次郎が石盤葺技術をドイツから導入した
・山本儀兵衛は石盤生産のため、明神地区で「開進社」(東京支社「開運社」)を設立、明治政府に人を要請し、宮城刑務所が西南戦争の国事犯を70人が雄勝に送り、最終的には305人が送られた
・山本儀兵衛は石盤生産のため、明神地区で「開進社」(東京支社「開運社」)を設立した
・日本国内の在学児童に教材用石盤を提供した、道路がなかった時代は、石盤などを船で搬出していた
石製品の収集作業は硯組合員とボランティア団体等によって、2011 年 5 月 3・4・5 日の連休の 3 日間で集中的に旧硯産業会館周辺付近を中心に行っていた。3 日間のボランティアは概ね述べ 150 人程度であり、主に一般の方々が殆どであり、中には埼玉県内の建設会社の社員 15 人等が貸し切りバスにて駆けつけ収集にあたった方もいる。収集した石製品は、震災後の硯組合の拠点施設である仮設工房の倉庫に保管していた。2016年 8 月 20 日、21 日、22 日の 3 日間をかけ、収集物調査は筆者を含む 4 名の調査員で行った。調査では石製品を洗浄してから、4 面(表 2 枚、裏、斜め)を撮影し、番号を貼り付け、大きさや重さなどを測定し、調査シートとして整理した。収集物の総数は 496 点であり、そのうち、クラフト品は 197 点、硯は約 6 割の 299 点である。同品目のものがあるため、最終的に調査シートとしては314 品目となった。収集シートのフォーマット作成に関しては、秋岡芳夫の道具コレクションのフォーマットを参考に組合側と協議しつつ作成したオリジナルシートである。収集物調査は、硯組合の事務局長の協力を得ながら、データ整理を行ってきている。
今回の調査では、特に収集した硯に関しての分析を行うため、一覧表(表 3)を作成し、「番号」、「表写真」、「裏写真」、「形状」、「硯名称」、「掘り方特徴」、「規格」、「材質」、「彫刻」、「蒔絵」、「螺鈿」、「作者番号名前」、「作者番号名前」、「蓋写真」、「横幅」、「厚さ」、「長さ」と「重さ」の 18 項目によってまとめた。調査中の計測や観察で判明できないことが、ヒヤリングによって判明した場合もあるため、これらの内容は一覧表の中では赤文字で表示している。また、収集された硯の蓋は、ほとんどヒヤリングによって判明した。
1)硯の「形状」、「硯名称」による分類
文献とヒヤリングにより、雄勝地区では硯は形状により大きく 4 種類に分けている。それは「角型硯」、「天然型硯」、「自然型硯」と「特殊型硯」であることが分かった。「角型硯」と「天然型硯」は模様がなく、ここでは、「自然型硯」と「特殊型硯」に関しては、「形状」と「硯名称」の二項目を合わせて名前をつけてまとめることにした。例えは、「特殊型硯」と「雲月硯」を合わせて「特殊型雲月硯」となる。(1) 角型硯「角型硯」とは、規格サイズに加工した長方型硯のことをいう。「角型硯」は模様がないが、蓋に模様がある場合がある。今回の調査では約 3 割の91 点が角型硯で、「未完成」の硯は 26 点、蓋付が12 点である(図 1)。(2) 天然型硯「天然型硯」とは、石を規格サイズに切断してから、人工的に四隅をとりのぞいた形の硯である。今回の調査では 299 点硯製品のうち 11 点が「天然型硯」であった。蓋付のものはなく、「未完成」は 1 点であった(図 2)。(3) 自然型硯「自然型硯」とは、山から取ったままの形を保つ硯、いわゆる硯の表と裏以外の面では、磨きをしていない硯のことである。収集物の中では 39 点の硯が「自然型硯」であった(図 3)。(4) 特殊型硯「特殊型硯」とは、「角型硯」、「天然型硯」、「自然型硯」、以外の硯のことであり、今回の調査では、収集された硯の半分を示す 158 点が「特殊型硯」として分類した。「特殊型硯」の名前は、「その他」を除いて 35 種あることが判明した(図 4)。
2)硯の掘り方の特徴
硯の裏側にノミで取り除く場合は、「裏掘り」と呼んでいるという。硯の裏側の周囲を残し、真ん中だけ取り除く硯もあるという。「裏掘り」を施すことは、硯の底と接触面の間で真空のようなスペースをつくり、より安定させることを狙っているという(図 5)。硯の調査対象 299 点の中で、「裏掘り」をしている硯は約 2 割、「裏掘り」をしない硯が多いことが判明した(図 6)。
3)硯の規格
硯の規格は「寸(すん)」・「度(たび)」・平(ひら)」・「尺(しゃく)」で表記している。寸は 30mm、度は 45mm、平は 75mm、尺は 303mm である。
例えば、二五度とは、長さが二寸五分、横幅が45mm の硯のことである。
4)硯の材質
収集した硯の裏に刻んでいる文字、貼っているシールに関してはヒヤリングによって、30 点の硯の材質が判明することができた。日本国内の他産地の硯を海外の硯もあった。
5)硯の模様
模様がある硯は、「自然型硯」と「特殊型硯」である。硯の模様は、「彫刻」、「貝埋」、「螺鈿」、「蒔絵」と「模様なし」の 5 つに分けている(図7、図 8)。
6) 硯の製作者
ヒヤリングによると、硯の裏に製作者の名前を刻むことによって、受注時に製作者をリクエストするだけではなく、硯の修復に保障の役割も果たしている。収集した硯の約 5 割の 155 点は作者や製作先などを、シールとヒヤリングによって、作者や会社を 31 箇所を判明した。特に作品が多く見られるのは雄勝の硯職人の阿部英一、杉山康、杉山澄夫であることが分かった。また、今回「天然型硯」に名前を刻んでいる硯は見つからなかった。
7)硯以外の収集物
硯以外の収集物は全体の約 4 割を示す 197 点である。中では「文房用品」50 点、「食器」48 点、「蓋」19 点、その他が 80 点である。
6.考察
文献・ヒヤリング調査を通して、雄勝石とその産業に関する歴史、くらし、生産、流通、従事者や石組合の変遷等の情報を収集したが、文献とヒヤリングから得た多くの情報が一致していることが判明した。雄勝石の採掘と「ポゾラン」を含む石製品の生産、流通に関しては、文献ではなく、ヒヤリングだけから得られた情報だけであったことを特筆したい。ヒヤリング内容は、あくまでも対象者の記憶であり、高齢なヒヤリング対象者もいるため、正確さを求めているのではなく、雄勝石とその産業をより深く理解していく上で、よりイメージが浮かびやすくなる情報として受け止めている。
収集物調査は、硯組合の事務局長の協力を得ながら、データ整理を行ってきている。震災前の旧硯産業会館内には展示品(硯組合と市所有と各企業のもの)として 500 点程度の硯製品を保有していたとのことである。収蔵品リストは作成していたが、そのリストは震災時に消失したとのことである。また、隣接する雄勝インホメーションセンター(雄勝観光協会が指定管理者)内の硯製品は約 300 点あったとのことである。調査では、特に雄勝地区の硯の「形状」、「名称」、「裏掘り」、「規格」、「模様」に関しての見極め方について明らかにできた。収集した 299 点の硯の中で、模様がある硯は 65 点しかなく、彫刻や螺鈿等の模様がある貴重な硯も明らかになった。また、硯の「作者」に関しては、シール、掘り込み文字とヒヤリングによって、硯の約 5 割が判明でき、明治時代の硯と硯名工の作品明らかになった。収集した硯の「材質」と「製作年代」に関しては、雄勝石を使用した硯が多いことも分かったが、「製作年代」、「作者」などに関しては、判別できない物が多くあり、困難であることが分かった。現時点では、硯組合としては石製品の収集作業を行う予定はない。
また、日本国内外の他産地雄勝硯の比較に関しては、今回の研究では明らかにしていない。震災前に硯組合では、海外(特に中国、韓国)との交流もあったと聞いている。今回の収集物にも海外の物も含まれていることから、今後は、その比較研究を行うことも必要と考えている。
参考引用文献:
1)雄勝いしのわプロジェクトホームページ
http://ogatsu-ishinowa.jp
2)雄勝町史,昭和 40 年
3)雄勝硯生産販売協同組合ホームページ
http://www. ogatsu-suzuri.jp
4)木村鉄郎:The 硯 石は語る文房四宝 3 選び方使い方;
日貿出版社,1984.12
5)斎藤荘次郎:桃生郡史;名著出版, 1973.2.25
6)柴修也:西南戦争余話 1990
7)寺谷亮司 宮城県雄勝町硯石産業における生産流通構造の変遷;経済地理学年報,第 33 巻 第 2 号,1987
8)山本俊一郎 上野和彦 宮城県雄勝硯産地における生産構造と産地再生の課題;阪経大論集,第 58 巻第 6 号,2008.1
9)雄勝小学校百年の歩み
10)矯正図書館 WEB 展示室ホームページ
http://www.jca-library.jp/gallery/tenjisitu/index.html
11)google map